八月の記録⑧
「天皇家つねに正面向きて夏」
(作者不明・ご存じの方教えて下さい)
8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。
が
戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。
私らまでが「ハナ・ハト・マメ・マス」で習うたんやろな。
その後は、「ススメ・ススメ・ヘイタイススメ」になった。
修身だけは校長先生が教えた。
四大節(注・四方拝1/1。紀元節2/11。天長節4/29。明治節11/3)のときは校長が白い手袋をして教育勅語を読みはった。
書初めは金箔の半紙に教育勅語を書いた。
世話をしてくれる人があり、徴用逃れのために陸軍造兵廠へ入った。
何故か選ばれて機密部署に配属された。特機室でドイツ製の測定器を使って特殊機械の検査をした。
冷暖房完備の部屋だった。家族に話すなと言われた。
ある日、京都の島津製作所の人が菓子折りを持って家にやって来た。
情報収集だったのだろう。父親が怒って追い返した。
工廠には同年代の水口(滋賀県)の挺身隊の女学生が来ていた。
〇〇旅館が寮になっていて、月に一度帰っては米を持って来ていた。
その人たちは砲弾の検査をしていた。
軍隊は絶対服従やった。
毎朝礼で「軍人勅諭」をやった。初めは「変」と思ったけれど慣れてきた。
年頃やからみんなと同じ作業服を着ているのがいややった。
ある日、ちょっと襟を立てて(スタンドカラー風に縫い付けて)いたら憲兵に引っ張られて始末書を書かされた。
憲兵は毎朝、門のところで見張っている。
男の人と話をしただけで始末書を書かされた友達もいた。
兄が出征した。駅前に千人針をしに行った。
玉に当たったが、成田山のお守りが2つに割れて命は救われた(と、家族は思っている)
顔に傷が残った。(K・M 1925生女)
「弾薬庫址祭り屋台のでてをりぬ」 おたま
1939.3月(大阪府枚方市)陸軍禁野火薬庫が爆発。
死者94名。負傷者602名
また明日。
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