戦後強くなったのは女性と靴下(ストッキング)
という言葉をよく耳にしました。
ナイロンの発明により女性の靴下事情は大きく変わります。
急速に普及したといえ、我々が子どものころはストッキングは高級品であり大切に扱われていたのではないでしょうか。
トシちゃん(4歳上)は「伝線一本5円」でストッキングの修理をしてもらっていたそうです。アッコさんは伝線したところをご飯粒で押さえて一時しのぎにしたそうです。
グンゼのナイロン靴下は~な~んともいえない素晴らしさ
というCMソングを覚えています。
小学三年生だったと思います。
クラスにユミコちゃんという女の子がいました。
田んぼや畑に囲まれて一軒だけポツンとユミコちゃんの家がありました。
野菜や塩干モノやチリ紙や箒やタワシなどを商っていました。
軒の低い暗い家の中でおじいさん・おばあさんとユミコちゃんが3人で暮らしていました。
腰の曲がったおじいさんとおばあさんは、そこでひっそりと暮しているという印象がありました。
ユミコちゃんが病気で学校をお休みした日に給食のパンやプリントを届けました。
おばあさんは、小さな背中をさらに丸めて「ありがとね。ありがとね。これからもユミコと仲良うしてくんしゃい」と言われました。
ユミコちゃんのお休みが続いたある日、おばあさんが「これ、先生に渡してつかあさい」と言って四角い封筒のようなものを渡されました。
翌日、先生に渡すと、あら?何かしらという感じで(たぶん、不用意に)私の前で袋を開かれました。
出てきたのは「ナイロンストッキング」でした。
私は、ませた子どもだったので「見てはいけないものを見てしまった」と感じました。
親(おばあさん)が学校の先生に付け届けをするのは、なんとなく「イケナイ」ことだと思っていたのでしょう。
ユミコちゃんは元気に学校にでてきました。
その後も2・3度、ユミコちゃんが先生に封筒を渡し、先生が「まあ・・こんな高価なもの・・」と言っておられる場面を見ました。
ずっと、ずっと、疑問に感じていたのですが。
ユミコちゃんは「混血児」ではなかったか・・と思います。
我々、キューピー体形の子どもと違い手足が長く、髪も目も少し茶色で。髪の毛はふわふわとカールしていました。
・・・・・・・
戦後から昭和30年代当時に使われていた「混血児」という言葉はナショナリズムに基づく排他的な国民性を表して興味深いです。
進駐米軍人と日本女性の間に生まれたGIベビーと呼ばれた子ども達は奇異の目で見られ
格好の差別対象となりました。
板付米軍基地が近い我々の小学校には一級下にブロンドで青い目の女の子がいて「あいのこ・あいのこ」といじめられていました。
子どもの世界は大人社会の鏡です。
「あいのこ」という差別的な蔑称を面白く囃し立て、少数者を排除してしまう。
差別意識は社会や人間の成熟度を測るものさしと言えると思います。
当時の子どもたちは残酷でした。
沢尻エリカさんがさほどハーフぽっくないビジュアルであるように
ユミコちゃんにとって、ブロンド・青い目でなかったことは幸いだったのでしょうか。
おじいさんとおばあさんが必死にユミコちゃんを守り抜いておられたような気がしてなりません。
私は、その後大阪へ引っ越しますが、仲良しのハルミちゃんと文通を続けていました。
ハルミちゃんとユミコちゃんは同じ高校に進んだそうです。
物凄く綺麗な女の子になっているとハルミちゃんの手紙にありました。
ユミコちゃんの「秘密」について、チラリと触れていたことが一度だけありました。
ストッキングにまつわる思い出は以上です。
ユミコちゃんのお母さんのことは何も知りませんが、あの「ナイロンストッキング」の向こうにはお母さんがおられたように思います。
;2009/9~2013/8 の記事はコチラです⇒http://nurebumi.cocolog-nifty.com/
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