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2021年8月11日 (水)

八月の記録⑪



 

 「新聞が休んでどうする終戦日」

       (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

 

17・18・19歳と工廠で従事した。当時は徴用逃れのために、皆、つてを頼って、はいらせてもらっていた。
夜勤明けの6:30に空襲に遭った(注・1945.7.30と思われる。05:48~08:15にかけて110機の艦戦機が来襲)
自分は防空壕に入った。爆風で壕の蓋が閉まった。
「防空壕が閉まったぞ~」という声がした。壕の上には竹筒の息抜きがしてあった。
100m先に湯沸かし室があり、いつも7~8人の人が居た。其処に残った人たちは全滅であった。
「女は行くな!!」と誰かが叫んだ。肉片が飛び散っていたと後から聞いた。

翌日、機銃掃射を受けた。それが一番恐ろしかった。
竹藪からトンボみたいなのが飛んできて、足元をババババーッとやられた。
超低空だから米兵の顔がはっきりと見えた。生まれて初めて外国人の顔を見た。
「女の子が一人で出歩くからや!」とおじいさんにひどく叱られた。

食べ物の事。1941(S16)は肉があった。パン・菓子も配給があった。1943(S18) になると、大豆かすの入ったごはんになった。
お百姓さんが供出してくれる、キャベツ・たまねぎ・じゃがいもの炊いたおかず。毎日毎日同じものだった。
これらは、工廠に行っていたから食べられたわけで、淀川の堤防にはノビルもヨモギも草一本生えていなかった。皆が食べたのだ。
工廠の給食をこっそり持ち帰り、小さい弟に食べさせた。
エライさんは物をよく運んでいた。

1945・5月、6月頃はもう仕事が無かった。
そして8月15日。「放送がある」と聞いた。きっと「もっと戦争ガンバレ」と言われるのだ。と思った。
戦艦を四国沖にいっぱい隠していると聞いていた。
本土決戦に備えて、藁人形で銃剣術も習っていた。
負けるとは夢にも思っていない。泣いている人もいたが自分はキョトンとしていた。負けたことが信じられなかった。
「だまされていた」と思った。(M・K 1926生女)

 

 

「カンナ燃ゆ機銃掃射を語りし母」おたま

 

 

                 また、明日


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