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2021年8月

2021年8月31日 (火)

じゃ~~ん。そういえば



昨日からきれいな声の鳥が来ています。
あまり聞いたことのない鳴き声
庭に出るのも暑いので姿を想像してみませう。
ハバタン(兵庫県のマスコットキャラ)みたいだったらいいなあ
(ハバタンは決して羽根のあるひよこではない!と、声を大にして申し上げたい)

 

そういえば、今年はホトトギスの声を聞かなかったわ。
長い長い梅雨で夏の始まりが解らなかったのかな

 

そういえば、今年は芋茎を一回しか炊かなかったわ。
長い長い梅雨で店頭に出回らなかったのかな

 

そういえば、今日は8月31日
子どもにとって、一年で最も悲しい日。宿題の山を抱えて途方に暮れる日。
コロナ禍で登校日がまちまちの今年。
子どもが遊ぶ姿を見なかった夏でした。

Img_7238_20210831082501

そういえば、今日はヨカちゃんの誕生日です
じゃ~~~ん(ヨカちゃんの口癖)

 

何かを見せてくれるとき、(おもちゃとか絵とか)必ず「じゃ~~~ん」と言いますので
こちらは「ひぇ~~~」と驚かねばなりません。

ヨカちゃんは私の息子の娘で、ついに5歳になりました
じゃ~~~ん

ぱーりぃ(party)は今度の日曜日です。

ぷれじぇんと(present)は現ナマと決めています。
暑いけれど郵便局まで行ってきます。

 

 


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2021年8月30日 (月)

そんな時まで生きていない



人新世 (ひとしんせい・じんしんせい)
という言葉を最近よく見聞きするのだけれど、奥様ご存じ?

検索を掛けても「人神聖」「仁心整骨医院」ってでてくるから新しい言葉なのかしらね。
昔のたばこ?水戸黄門の主題歌?


Wikkipedhia

人類が地球に及ぼした影響の学術的な括り
でいいのかな。
何言うてるかわからへん・・

でも、この異常気象はわかる。
WHOが「これって人間のせいでっせ」と発表したし。

辛いわ。どうなるんだろ。この地球。
松田聖子ちゃんの「瑠璃色の地球」を口ずさんでみる

 
・・・・・

地球という名の船の
誰もが旅人

ひとつしかない
私たちの星を守りたい

エエ歌やね。

地球規模でものを考えるグローバルな自分にうっとりしていると
ガチャピンがやって来たので

「地球が無くなったらどうする?」と聞きました。

「そんな時まで生きていないわよ!」と彼女はいいました。

「それもそやな」・・・素直なあたし

彼女は町内のごみシートの集金に来たのでした。
@198×11所帯
お世話様でした。

それから、エアコンのガンガン効いている部屋でお茶しました。
あの人神経質だから、我が家のリビングの端と端でおしゃべりします。

長生きしたいのね。きっと。

「おたまちゃん!あたしが帰ったら換気しなさいよ」と言いました。

アタシが先に死んだら寂しいのね。きっと。

 

 


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2021年8月27日 (金)

曼珠沙華の咲くころ



Img_7398

  「曼珠沙華音たて止まる一両車」

 

かつて因幡街道の宿場町として栄えた地に一両電車が走る。JR智頭線

今月の兼題は「曼珠沙華」
傍題として「彼岸花」「死人花」「天蓋花」「幽霊花」「捨子花」「狐花」がある。

「マンジュシャゲ」とりあえず?ダーッと作ってみる

 

「廃村に畦の名残や曼珠沙華」

「曼珠沙華ゆつくり暮れる寺領畑」

「ライダーの畦に立ちをり曼珠沙華」

「曼珠沙華日和石積み叩き行く」

「水禍堤いっせいに曼珠沙華噴く」

「曼珠沙華背丈届かぬ水位線」

「母子手帳貰ふて帰る曼珠沙華」

「おほかたの棚田は捨田曼珠沙華」

「後ろ向きに歩いてみたり曼珠沙華」

「政局談好きな男と曼珠沙華」

 

最後の3句は昔の句。あとは昨夜作った。
亡き先生は中七の「や」切れは危険ですといわれた。
「佇つ」と書いて「タツ」と読ませることもお嫌いだった。
「噴く」なんて常套だといわれそう
言葉に厳しかった。特に対象を見下すと直された。「捨て苗」は「余り苗」というふうに。「捨田」ダメかな。

ゆっくり考えてみよう。時間はまだある。

 


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2021年8月25日 (水)

霧のかなたへ



鍋を買って酒を売って、ワタクシの心の霧は少しずつはれていくのでしょう。

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花壇のお花がこんなに咲きました

Img_7428 
これね、ポット苗 @50 だったですよ
関西Ladyすぐにお金の話します。お下品でごめんあそばせ
ちなみに@50は(50まんえん)と読みます。

霧が晴れる。
俳句では「霽れ」という文字を見かけます。
おおきくしてみませう。

「霽れ」です。

雨などが終わった後に晴れる。という意味を含む古い漢字だそうです。
心の霧が霽れる・・・エエ言葉じゃぁ あ~りませんか。

ストレッチ教室のリクエスト曲。今月は「霧」の曲を持って行きました
霧のサンフランシスコ/ トニーベネット
霧のロンドンブリッジ/ ジョー・スタフォード
霧のカレリア/ ザ・スプートニクス

懐かしいでしょ?奥様。

 

 

「霧」は夏の季語なんですよ

 

 「寄りて見る標高標識霧流る」
             2010年・阿蘇草千里にて

 

 


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2021年8月24日 (火)

現状打破のための行動その2



(昨日の続きです)

其の  鍋を買う

順番がてれこ(判ります?)になって申し訳ありません。(別に反省はしていません)

鍋を買いました。
理由はありません。
そうだ!鍋を買おう!と思いました。
鍋を買う事によって私の悲しみが癒える・・はずでした。

Img_7422

これは、お鍋の入っていた段ボール箱です
本物はステンレスがピカピカ過ぎてカメラマン(あたし)が写りこんじゃう。可愛いから別にいいんだけどね。


生まれてこの方(ずいぶんになるけど)テフロン加工製品を使ったことがありません。

フライパン・卵焼・中華鍋・すき焼きなべ・天ぷら鍋。ALL鉄ちゃんです。
PAN(鍋)は深・浅・ゆきひら、全て 業務用アルミ打ち出し。
産湯に使えそうな「いかなご用」お鍋もアルミ製。
あと、昔流行した陶器のお鍋に頂き物のおフランスの耐熱ガラスのお鍋。

 
もう・・いいやん。って思いました。
さよならだけが人生です。
結婚当初から怖ろしい年月使ってきましたし
あたしは、テフロン加工というものを知らずに死んでいくのかと思いました。
ひたすらに「鉄」&「アルミ」と格闘して参りました。
それが一番美味しいと・・・

最近のはセラミックコーティングしてあって、熱伝導もムラがないんだって。
鍋にこだわるほどの料理の腕前でもないしね。
フッ素加工?やってやろうじゃないの!って思いました。

其の の結末

写真上のPOT型 お湯を沸かしたり、煮る・炒める・揚げると何でもできる(はず)
一人分の揚げ物に大きな天ぷら鍋は要らん。こんなので上等や!
奥様ね。何事もやってみなきゃわからんですばい。
確かに油は少量で済みます。でもね。
口が狭いから揚げる時、上からのぞき込むようになる。
怖いよ。それって。可愛い顔に油が飛び跳ねたらどないしますねん。
一回で却下。

写真下のPAN こちらの内側がテフロン加工になっております
人生に「始めて」って、まだまだあるんやね。

 真綿嬢に一番に使わせて差し上げた。
きゃは。パスタがそのまま茹でられますわルン
で。ソースもここで作って混ぜるルン
ところが、お皿に移す段になって沈黙なさりました。

だ・・だめですぅ
プルプルします(腕が)

おたまさん!これ重すぎますぅ~~~
プルプルプル~~~~

てなわけです。

心の平安?もうちょっとやな。

 

 

                 


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2021年8月23日 (月)

現状打破のための行動その1



相変わらず気分がパッとしない。

な~んか、もわ~っとしている現状を、どげんかしようと
次の手に打って出た。

人は幸せを求めて生きなければならない

其の  鍋を買う
これに付きましては、次回、詳細を述べるといたしましょう。

其の   ヘネシーを売っちゃう


自分の未来をいくら思い描いても、「白いバスローブ着たロッキングチェアの自分が、顔よりデカイワイングラスを揺らす」なんて絶対にありえない、と気付いたからだ。もっと早くに気付くべきだった。

新聞に近くのスーパーのチラシが、たまたま、はいってた。
本日より2日間、出張買取。古いヘネシー箱が無くてもOK!だってさ

未開栓金キャップ・グリーンボトルのエクストラが2本ある。
ネットの中古で1本48,800円で出ていたよ。

そんなに欲深いことは申しません
アタシ、1万5千円にはなると踏んだ。
コレで、1万2500円の、デボチンに近づけるとピッと鳴る体温計を買うんだ 

その の結末
閉店間際だったので、お兄さんが札束を数えていた。
なんでやろ。お客さんにお金を渡すはずなのに手元に仰山のお金。

お兄さん、液面の具合から「9000円」とお抜かし遊ばした。
こっちは液面の程度も調べ上げてるんだよ~と3週間前のあたしなら言ったとおもう。
でも、その元気は今はない。
「ピッと鳴る体温計、買われへん・・」と思ったけれど
へへ~っ と9000円頂戴した。サラピンのお札だった。
どうせ、家にあっても飲まへんし。あと一本あるし・・
それ、真綿嬢にネットで売って貰お!
などとぐちゃぐちゃ考えながら・・

薬局へ
相変わらず1万2500円の値札が付いている「ピッと鳴る子」
あたしの事情なんてお構いなしだ。そらそやな。

そこでゆっくり考えた。
12500-9000=3500 
3,500円の持ち出しだよ。
私は、心を安らげるために、この先の見えないモヤモヤを振り払うために
一攫千金を夢見たのだ。ここで出費してどないすんねん。
あかんあかん。思いとどまるんだ。
隣をみると税込み2,618円のテルモ体温計が目に入った
そうや!これにしとこ・・・
小走りでレジに駆け込む・・・

 

そして今、二本の体温計を並べぼんやりしている
家に一本あるのに、なんで買うたんやろ・・と

 

 

                 


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2021年8月19日 (木)

心配には及ばなかった



息子が「代休を取った」と言ってやって来た。
昨日の「お母ちゃん。もうあかん・・」騒動で様子を見に来てくれたのだわ。

なんと優しい息子だ。困る

葡萄狩りに行ったのがバレル

「わざわざ、悪いね」
「いやいや。今週中に代休取らなあかんかってん」

 

あんなね、生きるか死ぬかみたいな、瀕死の白鳥(良いように言い過ぎ)の体(てい)で
か細い声で、滅多にない電話をされた日にゃあ、驚くわよね

なのに・・。その3時間後に葡萄狩りに行ったって言えます?
人としてどうよ。というのもあるけれど、オオカミ少年みたいに思われて、いざ!本番(瀕死状態)のとき、駈けつけてくれなかったら、あたしゃ、どうすればいい?

Img_7418
(今年は梅雨が長く日照不足でやや小ぶりだけれど、味は濃密で美味しかった)

娘が居ないのでよくわからんが、男の子(おっさんやけど)って愛想がないね。
「大丈夫?」とか聞いてくれなかったよ。

お昼ご飯を食べて、おやつを食べて、さて帰る段になり
おもむろに葡萄の入った袋を渡した。

「あれ!どないしたん?」

「かってきてん」

「あ。そうなん?ありがとう」

私は、嘘はついていない。ちゃんと「狩ってきた」といいました
「買って来た」と思うのは彼の自由です。

心配には及ばなかったようです。Don't worry

 

 

連絡事項があり、イサオちゃん(一回り年上。30年来の付き合い。心の兄)から電話があった。
あたし、何も言っていないのに、「おたまちゃん。元気にしてるんやな?大丈夫やな」と2回も聞いてくれた。
先月会ったばかりなのにね。声に元気がなかったのかな。
優しい声にまたまた、ウッとなって泣きそうになったけど、我慢した。
これが、アカンねんなあ

                 


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2021年8月18日 (水)

泣く。



メンタルがめちゃ強いと人にも言われたし自分でもそう思ってた。
小学校の通信簿の「情緒の安定」はずっと二重丸だった。

鋼鉄の の持ち主・おたまちゃん。

心まで 鋼鉄に 武装する乙女

なのに・・はあ・・

今回は凹んだ(太ったけど)

目が覚めたら5時半だった。まだ早いけど起きようと思って
体をおこしたら、肩から首にかけて違和感を感じた
ドキドキしている。胸の辺りが痛くて抜けるようにだるい。
呼吸がしにくい。

げ。過呼吸やん!

しばらくじっとしていたけれど、突然、不安感に襲われ
長男に電話した。6時半。
体の不調で電話したことなど初めてのことだった。
一人暮らし歴16年間ではじめて・・

「そっちに行こうか?」
「ちょっと様子を見るわ」と言って電話を切った。

息子の声に安心したと同時に「ウッ」ときた。

そうだ!泣こう!
ヨカちゃんみたいに、ウェ~ンと泣いてみる
「お兄ちゃんが○○を貸してくれない~~」と泣いてみた。

泣ける。いいぞ泣いてる。と頭のどこかで思ってる
だって、悲しいんだもん。

2分ほど泣いたら。スッとした。
嘘みたいに体が元に戻った。

再び息子に電話。
「もう大丈夫やから、安心して会社に行ってね」

一時間ほどして、真綿嬢から電話
「大丈夫ですか~。お葬式だったですもんね・・」

「泣いたらスッキリした」
我ながら、あっけらかんと体調が戻っている。

「泣くのは大事です。泣かなきゃだめですよ」
と、泣き虫の真綿嬢に説教された。

Img_4757

めんどくさい姑だこと!

葡萄狩り(車で10分の農園)のお誘いがあった。
友だちが車で迎えに来てくれた。9時半。
この事は、あの人達(息子夫婦)には内緒にしておこう。

                  


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2021年8月17日 (火)

ですから、私たちは落胆しません。



土砂降りのお盆でした。
その雨は今も降り続き、当地は現在、大雨警報が出ています。

この10日間。
私の身にも大嵐が

心は折れているのに、体重ふえました。
なんで?

ず~っと雨の予報だったのでお盆前に墓掃除に行きました。
雨の止み間を縫って、迎え火を焚き、送り火を焚きました。

私がしおれた菜っ葉状態なので、真綿嬢が御飯の支度をしてくれました。
献立は決めてあったし、材料も揃えていましたので
「わたくし。やります」と言ってくれました。

Img_6431

お別れがありました。
大好きな人が神様のみ旨によりて天に召されました。
お葬儀は教会でした。
頂いた楽譜を見ながら、大きな声で讃美歌を歌いました(マスク着用)

また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を 離れざれ

牧師様のお話を聞きました。
彼女は今、天国の入り口に立った そうです。
そしてわたくし達もいつの日か、彼女の待つところへ行き
再び会える。

ちょっと、待ったりいな。
ウチは浄土真宗。私は阿弥陀さまの所へ行くことになっています。
その事を考えると悲しくて悲しくて・・・
もう決して二人が出合う事はないのです。

明るくて、やさしくて
最期の日まで、周囲を笑わせていました。

彼女から「いけません!がんばらなきゃ」って言ってもらっていました。
いつもいつも優しくして貰っていました。

わたしね、夫が亡くなってから涙が出ないんです。
で。

悲しくて悲しくて仕方がないのに泣けない。
だから。ごろごろして、ヨメにごはん作ってもらっています。

 (上のタイトルは聖書の一節です。お葬儀で教えていただきました)                 


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2021年8月12日 (木)

八月の記録⑫



 

 「祖母のみが知る英霊や盆の月」

       (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

北支(北支那方面軍)へ往った。(注・支那という言葉は今では使われない)
到着して真っ先にやらされたことは「肝試し」だった。


「きもだめしをやる」と言われた。
1グループ30人が横一列に並んだ。
目隠しをされた中国人捕虜が手を括られ、ぞろぞろと入って来た。
明らかに、非戦闘員(民間人)である。
横一列に並んだ中国人に一人ずつ向き合わされて、我々は立った。
その距離20メートルほどだったろうか。
銃剣を構え、獣のような声を挙げて向かって行った。
目隠しを外された中国人は最期までキッと睨み返していた。

銃剣をかまえたまま、失禁するもの。失神してしまう者もいた。
「肝試し」とは「人殺し」であることを初めて知る。

集落を襲っては進撃していった。
女を犯し、食べ物を奪い尽くし、村を焼き尽くした。
その後には必ず、日の丸を建てた。
(制圧・掃討作戦)

ついには、日の丸が無くなり、仕方がないのでシャツを脱ぎ、そこらへんに転がっていたチャンコロ(中国人の蔑称)の腕でグリグリと日の丸を描いた。

この事は、家族には話していない。(M.S 1922生男)

 
「八月の記録」は今日で終わります。

今回載せた12人の方は一人を除き、皆さん鬼籍にはいられました。
戦争は人間が人間でなくなることだと学びました。

戦争体験を直接、この耳で聞けた最後の世代かなと思います。

読んで下さってありがとうございました。

                  


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2021年8月11日 (水)

八月の記録⑪



 

 「新聞が休んでどうする終戦日」

       (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

 

17・18・19歳と工廠で従事した。当時は徴用逃れのために、皆、つてを頼って、はいらせてもらっていた。
夜勤明けの6:30に空襲に遭った(注・1945.7.30と思われる。05:48~08:15にかけて110機の艦戦機が来襲)
自分は防空壕に入った。爆風で壕の蓋が閉まった。
「防空壕が閉まったぞ~」という声がした。壕の上には竹筒の息抜きがしてあった。
100m先に湯沸かし室があり、いつも7~8人の人が居た。其処に残った人たちは全滅であった。
「女は行くな!!」と誰かが叫んだ。肉片が飛び散っていたと後から聞いた。

翌日、機銃掃射を受けた。それが一番恐ろしかった。
竹藪からトンボみたいなのが飛んできて、足元をババババーッとやられた。
超低空だから米兵の顔がはっきりと見えた。生まれて初めて外国人の顔を見た。
「女の子が一人で出歩くからや!」とおじいさんにひどく叱られた。

食べ物の事。1941(S16)は肉があった。パン・菓子も配給があった。1943(S18) になると、大豆かすの入ったごはんになった。
お百姓さんが供出してくれる、キャベツ・たまねぎ・じゃがいもの炊いたおかず。毎日毎日同じものだった。
これらは、工廠に行っていたから食べられたわけで、淀川の堤防にはノビルもヨモギも草一本生えていなかった。皆が食べたのだ。
工廠の給食をこっそり持ち帰り、小さい弟に食べさせた。
エライさんは物をよく運んでいた。

1945・5月、6月頃はもう仕事が無かった。
そして8月15日。「放送がある」と聞いた。きっと「もっと戦争ガンバレ」と言われるのだ。と思った。
戦艦を四国沖にいっぱい隠していると聞いていた。
本土決戦に備えて、藁人形で銃剣術も習っていた。
負けるとは夢にも思っていない。泣いている人もいたが自分はキョトンとしていた。負けたことが信じられなかった。
「だまされていた」と思った。(M・K 1926生女)

 

 

「カンナ燃ゆ機銃掃射を語りし母」おたま

 

 

                 また、明日


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2021年8月10日 (火)

八月の記録⑩



 

 「四郎まで産んで殺して敗戦忌」

        (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

 

赤紙が来て、大阪〇〇へ行くと、門の所で「オマエはあっち。お前はこっち。」と右と左に振り分けられた。
選ぶ基準は、その担当の人の気分のようでした。
あとで、右は南方へ。左は中国へ行かされたとわかりました。

結局、三度徴用され、終戦はフィリピンで迎えました。
伝染病(マラリア)に罹り何度も死線をさまよいました。
病後は衛生兵として、従軍慰安婦の管理などもしました。
(階級が)上の人は日本人、下の者は朝鮮人の慰安婦が相手をした。

奇跡的に帰って来られた。
足の悪い母親が、毎日お百度を踏んでくれていた
                                            (S.M 1920生男)

 

 

 「熱中症に坐して八月六日なり」おたま

 

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2021年8月 9日 (月)

八月の記録⑨



 

 「八月がまたやつて来しまた祈る」

      (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

小さかったけれど、あの日の恐ろしさはよく覚えています。
原っぱで大きな黒い掛け蒲団を広げ、その中で母子5人がうずくまっていた。
「南無阿弥陀仏」と念じながら焼夷弾の火の海の中、命からがら逃げ回りました。
雨の中(もしかしたら空襲の後の雨だったかもしれない)水浸しの防空壕へ避難した。
あの日、長柄橋(大阪市北区・東淀川区)の下に逃げなくて助かった事。
終戦の日の太陽と電球の灯りのまぶしかった事は母から何度も聞かされた。
父が戦地から帰ってきました。
真面目一筋の父だったのに、酒乱で明け暮れるようになり、戦後の辛くて、暗くて、重苦しい記憶が蘇ります。
(A・S 1939生女)

 

「真ん中に梅干しひとつ原爆忌」おたま

 

 

                  また明日。


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2021年8月 8日 (日)

八月の記録⑧



  

 「天皇家つねに正面向きて夏」

        (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

私らまでが「ハナ・ハト・マメ・マス」で習うたんやろな。
その後は、「ススメ・ススメ・ヘイタイススメ」になった。
修身だけは校長先生が教えた。
四大節(注・四方拝1/1。紀元節2/11。天長節4/29。明治節11/3)のときは校長が白い手袋をして教育勅語を読みはった。
書初めは金箔の半紙に教育勅語を書いた。

世話をしてくれる人があり、徴用逃れのために陸軍造兵廠へ入った。
何故か選ばれて機密部署に配属された。特機室でドイツ製の測定器を使って特殊機械の検査をした。
冷暖房完備の部屋だった。家族に話すなと言われた。
ある日、京都の島津製作所の人が菓子折りを持って家にやって来た。
情報収集だったのだろう。父親が怒って追い返した。


工廠には同年代の水口(滋賀県)の挺身隊の女学生が来ていた。
〇〇旅館が寮になっていて、月に一度帰っては米を持って来ていた。
その人たちは砲弾の検査をしていた。

軍隊は絶対服従やった。
毎朝礼で「軍人勅諭」をやった。初めは「変」と思ったけれど慣れてきた。
年頃やからみんなと同じ作業服を着ているのがいややった。
ある日、ちょっと襟を立てて(スタンドカラー風に縫い付けて)いたら憲兵に引っ張られて始末書を書かされた。
憲兵は毎朝、門のところで見張っている。
男の人と話をしただけで始末書を書かされた友達もいた。

兄が出征した。駅前に千人針をしに行った。
玉に当たったが、成田山のお守りが2つに割れて命は救われた(と、家族は思っている)
顔に傷が残った。(K・M 1925生女)

 

 

「弾薬庫址祭り屋台のでてをりぬ」 おたま

1939.3月(大阪府枚方市)陸軍禁野火薬庫が爆発。
死者94名。負傷者602名

 

 

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2021年8月 7日 (土)

八月の記録⑦



 

 「蜩や赤紙の使者立ちてをり」

       (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

 

フィリピンへ往った。車の運転は軍隊で習った。
自分は6・7台のブルの先頭にいた。
爆音がして後ろを振り向いたら一台も無かった。地雷に当たったのだった。


皆がマラリアにかかっていく。毎日焼いた。
現地人の女性を強姦しては銃剣で刺し殺した。
自分は震えながら、物陰からそれを見ていた。


今、JAのツアーで南方へ慰霊の旅に行ってるやろ。
誘われたけどよういかなんだ。
みんな、日の丸振って、よく行けるなとおもう。
わしは、よう行かん。 (K・U 1916生男)

 

「忠魂碑に影を作りて百日紅」 おたま

                                                     また明日


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2021年8月 6日 (金)

八月の記録⑥



 

 「原爆忌犬は鎖に繋がれて」

       (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

 

内地防衛で臨時招集され、鉄道設置訓練のため千葉で6ヶ月を過ごした。
広島に移動したのは1944・9月。木造二階の中学校を兵舎にして訓練に従事していた。
1945・8・6の朝、太陽を背にし、中隊長から訓示を受けている最中であった。
後方で飛行機の音。パシッと耳元で風船の割れたような音がした。

気が付いた時は、溶接の火のような中で地面を這っていた。
熱い、ともかく熱い。数十秒は意識もはっきりしていた。
しばらくして、ほこりが収まったが、自分の位置がわからない。
校舎が無くなっていた。爆心地から2キロの地点であった。

シャツの背中の部分がボロボロになっており、衛生兵がドラム缶のグリスを塗ってくれた。
3~4人で北のほうへ逃げ、農家へ入って休憩した。キュウリ、ナスの葉がしおれていた。
広島全市が燃え上がっていた。


隊の方向へ歩いて帰る道中。老若男女、皮がむけてその皮を地面に引きずった行列が続いていた。
太田川の堤防に運ばれた死体が米俵のように積まれていた。すべて黒焦げ。男女の別も分らない。その中でうごめく人もいた。

一ヶ月間、隊内で残務整理をし、8月除隊。
背中のやけどの跡は16年間消えなかった。
(k・k  1926生男)

 

 

「コンクリートに木の影の折れ原爆忌」
                      おたま

 

 

                  また明日。


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2021年8月 5日 (木)

八月の記録⑤



 

 「空襲もうなし八月十五日」

     (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

 

日曜日には空襲がなかった。
大阪で空襲があると夜中でも夕焼けのように空が真っ赤になり、必ず真っ黒の雨が降った。
乾パン・水筒・煎り大豆・防空頭巾・懐中電灯を常に持っていた。戦争に負けると思っていないので遠足気分だった。

大阪空襲の時(注・1945・6月1日or 7日)大劇(注・大阪劇場。現在の大阪市千日前にあった)に行っていた。
もちろん取りやめになり、谷町の堤を走りに走った。
電車が止まり、みんな逃げまどっていた。
翌日。友人の父親を探しに行った。昨日から帰っていないという。
天満の川は死骸で死骸で、すき間もなかった。
熱いからみんな川へ飛び込んだのだった。
橋の上から眺めていた。

友人が「おとうちゃんや!」と言った。橋杭にひっかっかていた。
あれだけの死体のなかで見つけられたのは奇跡だと思った。
(注・3月半ばに続き、この年6月には集中的に大阪市内がB29に襲われる)
6月1日   9:28~11:00 B29/458機 焼夷弾2789トン
     被災者218,682名。死者3112名   
6月7日  11:09~12:28 B29/409機 焼夷弾2594トン
     被災者199105名。死者2759名)
以下、6月15日・・26日
                (M・M 1925生女)

 

 

 「ヘアピンに鉄の匂ひや敗戦忌」 おたま

                   また明日。


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2021年8月 4日 (水)

八月の記録④



   

 「靴音の揃ふはおそろし敗戦忌」

      (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

「中国で戦争が起きたときは、小さな子どもでした。
日の丸の旗に送られて兵隊さんが出て行きました。
兵隊さんに慰問袋を送りました。中に手紙を入れました。
そのころの私は”せっかく天皇様がアジアを良くしようとなさっているのに、それを邪魔する中国人は悪者だ”と思っていましたので、
「チャンコロ(注・中国人の蔑称)を何人やっつけましたか?」と書きました。
兵隊さんから返事が来て「今日はチャンコロを10人串刺しにしました」とありました。
人の「死」に対して、何の痛みも悲しみも持たない子どもでした。(M・T 1927生 女)

 

 「呼びかけの署名に応へ開戦日」 おたま

 

                 また、明日


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2021年8月 3日 (火)

八月の記録③



 

 「母の八月潜水艦まだ浮上せず」

       (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

 

「金融機関は徴用逃れが出来る特典があり、村の銀行に勤めに出た。
山奥やから空襲は一度もあらへん。
村で一軒だけ電話のある隣保のおばさんが「空襲警報だっせ~~」とおがり廻って走った(叫んで走った)
私ら行員は金庫室に鍵をかけ裏の部屋で昼寝をした。
しばらくすると、さっきのおばさんが「解除だっせ~~」と走り回る。
そんなのんびりした田舎でも、終戦前になると裏の山に兵隊がようけ入ってきて豪を掘りよった。
兵隊さんは村一番の大きな家に寝泊まりしていた。


村の中ではみんな兵隊に行ってようけ(沢山)死んだわな。
朝鮮人は弾(たま)除けに使われたというこっちゃ。
芋づるのお粥、南瓜の葉の雑炊、ぬかの団子を食べた。
8月15日は銀行に居た。みんな泣き回っていた。
支店長に「うろたえるな。うろたえるな。"さあ”というときは、女は髪を切って顔に墨を塗れ」と言われた。
月給を50円もろうてた。ひとつも使わんと貯金したお金450円。
戦後、山崎の街に出て、傘一本450円で買うた。
お向かいのおじさんが腹切って死んだ。
埋めていた国債やら証券が全部腐っていた。というこやった。
                (H・M1925生・女)

 

 

「日露戦争必勝祈願さみだるる」 おたま

私の住む町の小さな集落にも小さな祠があります。

 

                  また明日。


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2021年8月 2日 (月)

八月の記録②



  

  「八月や人体といふ燃ゆるもの」

        (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

 

  

「丸6年、外地(南京)で過ごしました。
同年代はほとんどが戦死しました。
6年生の孫(注・聞き取り当時)に戦争体験は語れない。
色々なことがあったが、どうしても忘れられないのは、
ある日、中国人の捕虜が引っ張られて来ました。そのあとを5・6歳の男の子が泣きながら追って来たんです。
門の所までまで来たとき、警備の兵隊が男(捕虜)の首を日本刀でスパッとはねたんや。
子どもの目の前でやで。ああ。こんなむごいことがあるだろうかと思った。
父親を切り殺された子どもは、あれからどうなって、今頃どうしているかといつもいつも考えています」
(U・男1919年生)

 

 「立つたまま眠る番兵天の川」 おたま

 

 

                                                  また明日


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2021年8月 1日 (日)

八月の記録①



 

  「八月の地球に二つ爆心地」

        (作者不明・ご存じの方教えて下さい)

 

8月になったので戦争の事を書こうとおもいます。
と言っても、私は実体験としての戦争を知りません。

戦争を知っている年長者の下で大きくなりました。
その人たちに直接に聞いたことを書き留めておきます。

  

「終戦の直前、田んぼの苗が伸びていたので6月か7月頃だったと思います。
私の通っていた三輪小学校(現・兵庫県三田市)で機銃掃射に遭いました。
同級生の男の子や、田で草取りをしていた友だちのお母さんが亡くなりました。
学校には、尼崎などから集団疎開で、たくさんの子どもが来ていました。
敵機は確実に子どもたちを攻撃目標にしたのです。
田舎に居りながらも、戦争中はこのような怖ろしい体験をしました。
私が12・3歳のころのことです」(K・A 女)

 

 「炎天や機銃の痕の残る壁」 おたま

              (2004夏・伊丹市内)

 

                     またあした。


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