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2021年4月 9日 (金)

サコさんの話



京都精華大学の学長はウスビ・サコ(Oussouby SACKO)さんというマリ人です。
せんだっての日曜日にNHKのEテレ「こころの時代」をみました。(この番組、前は「宗教の時間」って言ってなかったかな?)

このドキュメンタリー番組の中でのサコ学長の話はとても興味深いものでした。
国費留学生として初めてフランスへ渡った時の驚き、中国、日本での様々な経験を経て彼が帰着する(心の)場所は母国マリの人々が暮らす「中庭」であったということ。

私はマリは勿論アフリカ大陸にも行ったことがないので、映像で見るだけですが
北京の四合院のカジュアル版(?)のような印象の
中庭を囲みいくつかの住居が雑居する形態です。

かつての日本にふつうにあった
味噌・しょうゆを貸し借りし合い、よその子を叱り、おしゃべりをし、笑いあう生活共同体。
小さな親切も大きなお世話もぶつけあいながら・・
そんな長屋のくらしのもっと濃密なゆったりとした時間がそこ(マリの中庭)にあるようです。


 
今、サウンド・オブ・サイレンスをレッスンしているので余計に心に刺さったのかもしれないけれど、一番心に残った話は
京都から数人の学生をマリに派遣するプロジェクトの中に
「この子大丈夫だろうか」とサコさんが心配するほどの内向きな女の子がいました。
ところが、マリの中庭で彼女は大きな変身を遂げます。

後日の彼女の話です
日本では、心を閉ざし引きこもる自分を周囲はそっとしておいてくれた。
マリではそんな私に話しかけ、ショッピングに連れ出し、中庭でお茶を飲む
誰も、私をそっとしておいてはくれない。

日本ではそっとされたままの自分が形成され
マリでは自分というものに向き合わざるを得なくなった。

 

サウンド・オブ・サイレンスでは半世紀も前の若者が人間不在の社会と人と人のつながりの無さをひりつくような感性で歌っています。
個人が尊重されるということと、人と人がかかわりあうという事は両立できないのかしら。

なんか、ちゃう。ちゃうちゃうちゃう。と
少し思っています。

K_20210409130601
(マリ共和国)


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コメント

あまりにも個人を尊重しすぎまるでガラス細工を扱うがごとく…の日本、で当人がいざ!と言う時は時すでに遅しの感ありで出来上がった「虚像」を壊せず虚像のままで年月が過ぎて実像に…。でも荒っぽいようですが今日も明日も生きる為には個人の尊重もそこそこに暮らさねばならない状態に放り込まれると殻の下にあった本来の姿が現れる…でしょうか。
時には荒治療も必要だという事なのでしょうね。

投稿: パコ | 2021年4月11日 (日) 03時26分

★パコちゃんへ
今の日本では個人に踏み込まないことが大人の対応だと考える人が多いのかなと思います。それがスマートだとおもっている?
自分に関わって欲しくないと考える人も多いかもしれません。
でも、それは善なる解釈で、実際は人に無関心。自分の事だけを考えているということと
表裏一体だと思うのです。
私は本来。人は人のために動く動物だと思いたいし、それが「社会」だと思うのね。
この世に自分一人しかいなかったら生きる意味なんて無いと思う。
この女子学生も、本来の自分(パコちゃんの云う実像)を「関わり」という人の力で引きだして貰えたのだとしたら、日本には希薄になってきているものがマリにはちゃんとあったということなのかなと思います。

投稿: おたま | 2021年4月11日 (日) 21時21分

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