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2016年6月11日 (土)

弱い立場の女性は本当は強かったのかも知れない。



NHK・ファミリーヒストリーに樹木希林さんが出演しておられた。
母上がなかなかの商才の持ち主であったらしい。
家を購入し、家族が住む以外の部屋を賃貸しされたそうだ。
1943(昭和18年)生まれの希林さんが少女のころである。

二階を在日米軍人を相手にお商売されている女性たちに。
一階を「結婚相談所」その実態は娼婦あっせん所の事務所に。
という店子の構成であったとのこと。

テレビでは「オンリー」と言っていたがオンリーは特定のお相手が決まっている日本女性のことで、そうでない,不特定多数に春をひさぐ職業婦人は「パンパン」と言われた。(もちろんNHKでさような用語は使っていない)
もし、店子さんがオンリーだったら、休日にはダーリンが訪ねてきていたはずだ。

また売春禁止法が施行されたのは1956(昭和31年)のことなので、それ以前の話なら法的には別に問題がないのだとおもう。(違うかなあ?)

このユニークな住環境での少女時代の希林さんを想像する。

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翻って自分のはなしである。

3歳半から4歳のある時期。それは1か月だったのか3か月だったのか半年だったのかわからないけど、私は母と二人きりで、ちっちゃな部屋に、ひっそりと住んでいた。
「逃げて隠れて住んでいる。」という印象は子ども心にもあった。
二階家の一階の脇にちょこっとくっついているような細長い部屋で「電車の家」と呼んでいた。
母にとっては初めての土地であった。

大家さんは進駐軍に出入りしている大工さんで40歳くらい。
20歳になるかならないかの若い奥さんとの間に私より一つ年下の男の子。たかっちゃん。がいた。
大家一家の二階には(先日ブログに書いたが)戦争未亡人が住んでいて一人を毛糸の先生と呼んでいた。もう一人の若い女性。この人も進駐軍系のお仕事をしておられたのではないだろうか。
この女性の登場する話

表通りは砂ぼこりのするバス道路。裏は路地になっており、対面する裏向かいの二階が、いわゆる「パン助宿」だった。そこの大家さん一家は下に住んでおり、大家族だったような気がする。
二階は、そういうお仕事のひと達だったが、下の一間に製菓工場で働く姉妹が間借りしており、姉の方は口蓋裂であった。この姉妹にはたいへんに可愛がってもらった。
女性に限定して間貸しするというのは大家さん側にとっては安心できるものだったかもしれない。
母はこの時まだ20代。
ちなみに「そういう仕事」をしていたわけではない。
ある日、隣の工場の空き地で母が、これらの女性たちとキャアキャアいいながらゴムとびをしていた姿を覚えている。若かったんだな。

裏向かいの二階のほっそりしたおばさんの所に巨大なアメリカ人が時々やって来た。
彼女のお相手が白人か黒人かは覚えていないが小さな子どもからすると巨大なガリバーであった。
アメリカ人が来るたび大泣きした。二階に上がる急な階段の後ろ姿に向かって泣き喚いた。
はた迷惑な子どもである。
だから、このほっそりおばさんはオンリーということだ。

ほっそりおばさんには、6・7歳の男の子がいた。日本人の子である。
小学校に上がっていなかったと思う。
ダーリンの滞在中、その男の子はどうしていたんだろう・・
(これは、大人になってから考えたこと)

或る時、ほっそりおばさんに映画に連れて行ってもらった
ディズニーの「ピーターパン」
暗幕に入ったとたんに大泣きをしたおたまを男の子は一生懸命になだめてくれた。
あんまり泣くのでたぶん、映画を見ずに外にでたのだろう。
「連れてくるんじゃなかった」というおばさんの独り言が聞こえた。
その間も男の子はなだめ続けてくれた。

後年、母に聞いたところによると、この母子はアメリカのナンタラ州というところに渡ったそうだ。(その時は詳しくきいたはずなんだけど忘れた)

落ち着き先を見つけるまでをとりあえずという事だったのだろう、教育上よろしくないという事を母は言っていたが、それはたいした理由ではない。
とにかく、ここに住んだのは多分極めて短い期間だったはずだが
記憶は鮮明である。

隣に大きな洋館があり中のお部屋を見せて貰って驚いたこと
裏の家に空き巣が入ったこと。
表通りのマンホールの蓋がはずれていつも竿の先に赤い布を括りつけて突き刺してあったこと。
大家のおばさんが自分の子とおたまを代わる代わるに「高い高い」してくれたこと。

いつも、コーヒーの香りがしていたこと。
裏の二階からルイアームストロングの歌声が流れていたこと。

自分の生い立ちについて少し書き溜めていたのを
なかなか出す気になれないで来た。
きっかけがあれば・・・また。
と思っています。


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ちびたま時代」カテゴリの記事

コメント

うちも間貸ししてました。小学校が終わるまで2階の3つの部屋に入れ替わり間借り人が住んでいました。一番小さい頃の記憶では、新開地という赤線に働いてる仲居さん母子がいて、父親の不明な男子がいました。この母子には壮絶な歴史があったのだと、大人になってから母に詳しく聞きました。まだ禁止法ぎりぎりの頃、2階の窓から赤線のネオンみたいな灯りが見えていたのを覚えています。

投稿: ばんび | 2016年6月11日 (土) 09時05分

ばんびさんへ
多かれ少なかれ人は時代を映して生きているのですが、当時は特殊ですね。

家族制度や女性の働く場や人の意識・・
多くの女性は,いろいろな意味で、男性に依る手段でしか生きられなかったのかなあと思います。
今、小学生のクラスの何割かはシングルマザーだと聞きます。周囲にも「ママ」の両親が物心両面で援助されているケースをよくみます。
ばんび家に間借りされていた母子、その後、どのような人生をあゆまれたのでしょうね。

投稿: おたま | 2016年6月12日 (日) 09時09分

思わずコメントを。。。
祖母が切り盛りしていた小料理屋には長い長い廊下が続き
その奥にはいくつかの小部屋がありました。
子供の頃の記憶にはいつも哀しげな表情のお姉さんたち。
可愛がってくれ、よく夜鳴きそばを一緒に食べました。
公務員だった父は家業がもたらす諸々から
心が壊れて亡くなり
母は必死にその環境の中で私を育ててくれました。
母は旧家の生まれ、父のギターに魅せられ結婚したとのこと。
ぐずぐず泣いている暇はなく、刺青の男相手にお姉さんたちを
守ったこともあると。。
記憶にあるのは常に毅然とした母の姿。
母にはとうとう言えなかったけれど、祖母の商いで
小学校では 担任に言葉の暴力を受け続けました。
楽天的な性格が救いで 今 こうして生きています。
その反動か。。純情すぎる青春時代。。
初めて手をつないだ夫と結婚。
死別後 義父母と泣き笑いの介護人生歩んでおります。
すんなりと心に入ってきました。。きょうの記事。

投稿: | 2016年6月12日 (日) 20時36分

お名前ないさんへ
コメントありがとうございます。

子どもって大人が考える以上に大人なんですよね。外で辛いことや悲しい目にあっても、親が悲しむだろうと決して言わない。
其の一点だけで耐えている。
その事は自分の胸に仕舞っておく。
今から思えば健気です。貴女も私も。

大人になってそれがアンバランスだったことに気付く・・・
お父様のこと詳しくは分かりませんが、お気の毒な事だったと思います。

生育環境がどうであれ、自分を作っているのは自分であること。人(家)のせいにしないこと・・早めにそう気づくことが自分を解放する最短の道だと今ならわかります。
抽象的な書き方ですみません。

両親は亡くなっていますが特に母に対しては屈折したものを今でもぬぐいきれずにいます。自分では孝行を尽くしたと思っているのですが、それが腹立たしかったりして
ご主人様を亡くされているのですね。
私のような呑気なお立場じゃないのですね。
私は全員を見送りました。その時は大変だったとおもうのですが、不思議なことに温かい思い出に変わっています。
頑張ってくださいね。


投稿: おたま | 2016年6月13日 (月) 08時51分

名前のない子です。お返事ありがとうございます。
親を気遣う子どもらしくない子どもだった頃の自分に
いつか『健気だね』と言ってあげたい。

母が、小説より奇なりの人生を耐えて来られたのは
流れる血の誇り故だったと聞かされた時には
楽天的な私もさすがに落ち込み 自分に流れる半分は
心の弱かった父と同じものだよと。。
醒めた気持ちで母を見つめたものです。
お母様の過去記事 そしてお返事を読み
母への思いが重なるかも。。と勝手に。。

今の生活は 人様が大変と思うほどではなく
ごく普通の苦労だと思っているので精神的にはラクです。
若い頃は普通ってどんなこと?の連続でしたから。
大きな支えは 夫が見守ってくれているという思い込みが
今だに続いている事。。バカでしょ?

『生まれや環境によるものは褒められるべきものではなく
努力することによって得られたものに対して評価すべき』
学生時代に出会ったこのことばを胸に世の中に出ました。
自分を解放する道。。
あの頃を懐かしく思い出し おたまさんのことばについ涙が。

おたまさんのブログは 汗流して働いてザバッと風呂に入ったあとのビール。例え下手ですみません。。
どのジャンルの記事も後味が好きです。
これからも楽しみにしています。

投稿: | 2016年6月13日 (月) 23時25分

名前のない子さん^^へ
全てを言わなくても聞かなくても分かり合えるような気分です。

親とか大人って不用意な発言をしますね。
子どもがどう思うかという想像力がないのです。私も反抗期の頃、祖母から「そんなところ、〇〇(実父)にそっくりだ」と憎悪を込めて言われたことがあります。
自分ではどうにもならないところで全否定されてもね。いつまでも残っています。

普通ではないと自分でも思っていました。
恋愛観や結婚観や男女の生き方に対してです。だからあっさりと普通の結婚をしたことが不思議でした。
夫には奈落の底から拾い上げて貰ったような気がしています。(ハード面ではなくソフト面で)明るい人でしたから。

それでも、絶望的な孤独感が自分の中にあるのはどうしようも無く、しんどさを持ったまま生きていたように思います。
或る時まで・・

長生きはするものですね。
昨日や今日、今の年齢になったわけではなく生きてきたウン十年間で自分が作られたと今では全て受け入れることができています。

ブログに書けないことは、たぶん書かない(公開しない)と思いますが・・
これからも、まったりとお付き合いのほどよろしくい願いします。

投稿: おたま | 2016年6月14日 (火) 09時38分

名前のない子です。
『分かり合えるような気分』と言って頂き、そっとハグしてもらった気分で過ごしていました^^
おたまさんの『或る時。。』想像もつきません。
私は、父の亡くなった年齢を1日超えた時に、壊れなかったことに安堵しました。
母の闘病を支えることができたのも、
父の弱さを『転んだらひとりで起きる』ことを教えてくれたのだと考えるようになったのも
私を否定することなくいてくれた夫の存在が大きかったです。
『普通はそんな風に考えない。けど俺は理解できる』と
言い続けてくれました。本当に心の深い人でした。
(。。ひっちゃんさんにはかないませんが。。)
今、穏やかな日もあれば、怒濤の1日もあり、そんな繰り返しですが、やり終えた感のある毎日は、夫への恩返しと思っています。
おたまさんの一言一言が心に染みて心が温まりました。
いつか役目を終えたら。。
どんじゃらのツアー行きたいな。。ビートルズ世代だし。
句集 『ぬれぶみ』出す時のサイン会も行きたい!
懐かしの映画のリメイク版に女優デビュー決まったら
どこまでも車走らせます!
小さな日常に身をおいているけれど、なんだか楽しくなってきました ´ ` 。

投稿: | 2016年7月25日 (月) 20時01分

名前のない子さんへ
うれしいコメントありがとうございます。
夫って生きているときは「このバカチンが!」と思ったこともそりゃあ。ありましたが(私の場合です)おおむね、いい人だったわと言われるのは果報者ですよね。
私の場合は順番どおりに姑さんが先に逝かれたのですが、亡きご主人の親御さんのお世話をされていることに頭が下がります。
天国できっと喜んでおられると思いますよ。
おおいばりであの世に行って下さいね。
私も「お待たせ~」とか何とか云って元気に逝く予定です。

今日のブログでUPしましたが「限定記事」のサイトをひとつ作ろうかなと思っています。
「或るとき」のことも書くかもしれません
書かないかもしれません。
(もったいぶった言い方ですみません)

お名前の無い方には私が勝手に名づけるというきまり?があるのです。
すでに「ペコちゃん」「パコちゃん」がいらっしゃいます。長ったらしい名前は勝手に独断で短くします(坂口あんちゃん)
それで「名前のない子さん」は「ポコちゃん」ではいけませんか。あれは男の子ですか。ボーイッシュで良いではないですか。


投稿: おたま | 2016年7月26日 (火) 13時55分

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