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2013年9月18日 (水)

九月吟行・国宝・待庵


   


明智光秀が本能寺の変で織田信長を自刃へと追い詰めたのは1582年。

この時、羽柴秀吉は備中(岡山)でもめごとの対応に当たっていたのですが
「こんなことやってる場合とちゃうよ。」と京を目指して取って返すのであります。

この決断力とフットワークの良さが彼の運命を決定づけます。

 秀吉蜂起の報を入手した明智勢は迎撃のため(現在の)京都府乙訓郡大山崎町辺りに陣を構えます。その数1万5千。

一方。Uターン決定から5日をかけて山崎へ到着した秀吉軍。
根回しも怠りなくその軍勢は4万5千になったそうです。

 

これが、天王山・山崎の合戦でございます。
光秀が追われ追われなんと土民の前で果てたのは本能寺の変からわずか、11日目。

みなさま。ついてきてますか~。
ここ。テストに出るとこですよ。

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合戦のあと、秀吉は
一年ほど、この山崎の地に住んでいたと言われています。

 

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JR山崎駅前。臨済宗東福寺派妙喜庵の中にある、
「国宝 茶室 待庵」は秀吉に招かれた千利休が陣中の労を慰めるために建てさせたもので、
現存する日本最古の、また唯一の千利休の遺構であります。

元は天王山の城にあったものを、秀吉が大阪に移ったときにこの地に移築されたのではないかと考えられています。

見学は事前予約が必要です。
撮影も禁止されています。

妙喜庵やお庭はOKとのことでしたのでパチリと撮ってきました。
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妙喜庵書院に続く、右の建物が国宝・待庵です
茶室は二畳。
一畳の待合。一畳の水屋(おそらく)。床の間。
全てあわせて四畳半に満たない大きさです。

茶室といえば「躙り口(にじりぐち)」「数寄屋風」が一般に知られています。
その原型がこの茶室であり、
秀吉が実際に、この「躙り口」から入ったと思うと感慨深いものがありました。

亭主と客人が膝を突き合わせるほどの空間。
お互いの呼吸さえ感じる静けさのなかで、秀吉と利休何を思い何を語ったのでしょう。

「チョー地味!ボクさ~キンキラキンが好きなんだけど・・」

躙り口は淀川の屋形船の入り口を模したといわれています。

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コメント

あんなに利休と関係が深かったのに、何故秀吉は利休に切腹させたのか?
諸説紛々、人の命ははかないけれど、侘びさびの精神を残した利休の図太さのようなものを感じます…というような小説を昔読みました。

ランキング1位独走ですね…。

投稿: ばんび | 2013年9月18日 (水) 11時37分

ばんびさん
驕れる者にとって御しきれない存在はメチャンコ腹が立ったのではないですか?
俗人・おたまの意見ですが・・

ランキングねえ・・
このあたりにいたら注目度UPするかなあと思っているのですが、新規読者増えてるんだかどうかわからないです。
求む!未亡人。なのですけどね。
ま。年末にはすごすごと撤退ですわ。

あ。忘れずに押して帰ってくださいよ!
突き指。保険で対応いたします。

投稿: おたま | 2013年9月19日 (木) 10時04分

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